「ここは俺の母校にすべきだ」衆議院議員 坂井学インタビュー(前編):『宇宙戦艦ヤマト』とイチョウ並木に秘められた原点

(インタビュー日:2025年11月 聞き手:政経学修会 会長 渕之上 和良

数々の要職を歴任した衆議院議員、坂井学氏。石破内閣発足直後、防災担当大臣として石破総理とともに能登豪雨の被災地に入り、被災者に寄り添っていた姿は記憶に新しい。しかし、報道から受ける『愚直な政治家』のイメージの裏には、驚くほどやんちゃで、ユニークな原体験が隠されていた。

幼少期はメンコやコマの達人で、小学5年生にして家族の夕飯にトンカツ(の下準備)をしていた「鍵っ子」時代。愛読書はニーチェと坂口安吾。東京大学を志した理由は「イチョウ並木に感動したから」、松下政経塾の入塾論文のテーマは「宇宙戦艦ヤマト」だった——。

今回、政経学修会は坂井学氏に単独インタビューを実施。その政治家としての原点と、知られざる素顔に迫った。(インタビューは時間の都合上、前編・後編に分けてお届けします)

【編集部より】 このインタビューは、坂井学氏の元秘書である渕之上がインタビュアーを務め、事務所スタッフや支援者も同席する終始和やかな雰囲気の中で行われました。そのため、記事中での坂井氏の口調は、率直で砕けたものとなっています。


お話しいただいた方

坂井 学

さかい まなぶ

衆議院議員 前防災担当大臣 前国家公安委員

プロフィール(公式HPより)※2025年11月現在

衆議院議員(6期) 神奈川第5区(横浜市戸塚区・泉区)
前 防災担当大臣
前 国家公安委員長
元 内閣官房副長官
前 自民党2027横浜国際園芸博覧会(花博)推進特命委員長

昭和40年9月4日生まれ
東京都府中市出身
小学生から大学卒業まで野球漬け(府中リトル、シニア)
東京都立国立高校卒業
東京大学法学部政治学科卒業
松下政経塾に入塾(10期生) 地域づくり活動などを熊本県、アメリカのスタンフォード研究所などで行う
地水社(熊本県の土壌浄化法による汚水処理を行う会社)の配管工として働くかたわら、自然農法による農作物栽培を実践
「自然との共生」を訴える故・鳩山邦夫・元総務大臣の秘書
復興支援グループ「ゆいっこ横浜言いだしっぺ支部」代表
「日本の安全保障を学ぶ会」主宰
元 横浜市立豊田中学校PTA会長
家族は妻と娘3人。趣味はウォーキング、スパイスを使った料理を作ること・食べること、野菜づくり)


1. 原点:メンコ千枚とトンカツ。府中”鍵っ子”時代の原風景

——まずは坂井議員の原点である、幼少期についてお聞かせください。ご出身は。

坂井氏: 出身は東京都の府中市です。

——どんなお子さんでしたか。

坂井氏: どんな子どもって···。極めて普通。まあ通常の野球少年だったと思いますけどね。小学3年生から武蔵府中リトルシニアで野球をやってました。

——野球以外、よくした遊びは。

坂井氏: 当時学校で流行ったのは、牛乳キャップを飛ばすやつ。こうやってビッて。遠く飛んだやつが総取りするっていうね。

あとはメンコね。まあ、めんこは百円使ってめんこ買ってそれから始まって、最後は千枚超えたからね。普通のコマもやりましたよ。引っ張って手乗っけて、こう(綱渡りみたいに)やったりとか。当時はみんな普通にそこまでは。基本中の基本。

【編集部注】「ひまわり」という遊び
坂井氏が語った「ひまわり」という遊びも印象的だった。地面に円と花びらを描き、中の「鬼」役に押し出されないよう、花びらの上を3周する遊びだという。府中市特有の遊びかもしれない。


——ご家族は4人家族(ご両親と2学年下の妹さん)。ご両親は共働きだったそうですね。

坂井氏: 父親は太陽熱温水器の取り付け工事業、母親は看護師で、私が小学校3年になった時から働き出したのかな。いわゆる『鍵ッ子』でした。小学校5年の1年間は私が夕飯を作ってました。毎日ね。父、母、妹の分を。小学校5年でトンカツとか。揚げ物は下準備までやっておいて、油で揚げる、母親が帰ってきてからにしてねっていうやつだったけど。

一番最初に作ったのは、あの、鳥のささみの揚げせんべいってやつね。ささみを叩いて平たくして伸ばして、塩、粉をまぶして油で揚げるだけなんだけど。結構自分でやってうまいなと思った。

——ご家族の反応は?

坂井氏: まあそれは「美味しいよ」以外を言わないよね(笑)。やっぱりね。続けて飯を作らせなきゃいけないのでね。おだてなきゃいけないでしょ(笑)。 (坂井氏が)6年生になったら妹が4年生になったんで、その仕事は妹に移って妹が作ってましたけどね。

——当時の経験で、今も印象に残っていることは。

坂井氏: (野球で)長距離走が一番最後だったんですよ、それで父親がそれじゃダメだって言って朝走らせ始めて。小学校の4年からかな、朝5キロ走った。そうしたら4年生、5年生、6年生は学年の長距離走で一番になった。それから3年連続。

——高校時代は、意外な本を読んでいたと伺いました。

坂井氏: (勉強は)全然気にしてなかったのでやってなかったしね。世界史の先生がいい加減な先生で、授業を聞かないで吉川英治の『三国志』を読んでても、「目立つから授業中はやらない方がいいよ」って言われたくらいで。 本として読んでたのはニーチェと坂口安吾だね。ただ、坂口安吾は小説よりもエッセー。いろんなとこ旅してて、旅の旅行記みたいなやつ?ああいうのは結構面白いなと思って読んでたけどね。


2. 決断:「ここは俺の母校にすべきだ」。イチョウ並木と『宇宙戦艦ヤマト』

——高校時代は勉強をあまりされていなかったにもかかわらず、東京大学法学部を目指されます。

坂井氏: まああのイチョウ並木に感動して、「ここは自分の母校にしよう」と思ったので。東大には全く興味なかったんだけど、クラスメートから「一人で願書を取りに行くのはちょっと寂しいから付き合ってくれ」って言われて(一緒に行ったら)、イチョウ並木が立派で「ここすげえじゃねえか」と思って。「俺の母校にすべきだな」と思って。

【編集部注】
この「イチョウ並木」エピソードは家族にとっても衝撃的だった模様。インタビューに同席したF氏が妹さんから聞いた話として、「(坂井氏が)男友達と出掛けて帰ってきた途端、『俺東大受けることにしたから』っていきなり宣言して、家族みんなびっくりした」というエピソードが明かされた。


——イチョウ並木で東大を決めたんですね。もともとはどこの大学を受けようと思ってたんですか?

坂井氏: 父親は東大受けて欲しかったんです。ずっと東大受けろとチクチク言われてたんで。だけど、それをなだめるというか納めるために「京都大学受けたいんだけど」って言ってたんだ。でもそれは単に、京都のお寺さんをお休みに回れるという理由で京都の大学がいいかなというだけで、別にどこ行きたいっていうのは全くなかったんだよね

——学部選びは?

坂井氏: 好きだった『三国志』のヒーローみたいな仕事に近いの何かなと思ったら政治かなと思ったんで、とりあえず政治があるとこにしようと。東大は法学部に政治学科があったから。

——とはいえ、高校時代はあまり勉強されていなかった。現役合格は難しかったのでは?

坂井氏: (現役の時は)当たり前のように落ちたんだけど。で、浪人の時には駿台予備学校に行ったんだけど、予備校の授業(の教え方)がすごく良くて。高校だと「こういう公式があります、使いましょう」だけで終わっちゃうけど、予備校は「なぜその公式が生まれてきたか」の解説をちゃんとやってくれる。理屈がわかると面白いですね。

——浪人時代は猛勉強を?

坂井氏: その浪人してた一年間は朝予備校行って、夕方ぐらいまで授業があって。(野球もやらないし)学校に行ってる時と同じ感じ。

——夜も勉強漬けだったのですか?

坂井氏: いいえ。まあ大体もう10時頃寝てたから。そこから朝6時かそこらに起きて、朝5キロ走ってたんで、毎日。(それは)小学校の4年から(の習慣)かな。

——浪人の末、ついに合格ですね。合格発表を聞いたときどんな気持ちでしたか?

坂井氏: 発表は本郷だったんだよね。見に行かないといけなくて。そして、本郷三丁目の駅で降りて、さあ行こうかと思ったら、野球部の一個下の後輩が向こうから来て、「先輩受かってましたよ!」って。いきなり。駅を降りて改札出た瞬間に合格が分かったという(笑)。

——(笑)。大学時代は真面目に勉強を?

坂井氏: 勉強は全然興味わかなかったですね。当時は東大のテストって、3人写真があって、『私はどれでしょう』っていうのがテスト問題になったぐらいだから。つまり授業行かないんですよね。教授の顔を知らないから。

——アルバイトは?

坂井氏: 家庭教師をメインで、あと単発の日雇いのバイト。引っ越しの手伝いとか、(山パンの)柏餅の製造とか。あと弁当詰めとかね。「(おかずが)あまりにも少ねえ、この人かわいそうだろう」っていうのがやっぱりあるから、そういうのはやつは俺が入れるのだけちょっと多めにしてやったり(おかずを入れる仕草)。

——サークル活動もユニークなことをされていたとか。

坂井氏: 「ボランタス」というところで、知的障がい者の皆さんに作業をやってもらう作業所を支えるボランティア。(資金集めのために)廃品回収もやったんで、むちゃくちゃ狭いとこ2トントラックで入ってたんで、そこでかなりトラックの運転は上手くなって。


3. 直感:「俺のために作ってくれた」。松下政経塾とアメリカの”チャーリーくん”

——大学卒業後、松下政経塾に入られます。

坂井氏: 新聞に15段広告が出てて。それを見たことがきっかけですかね。松下幸之助塾主の言葉が書いてあって。「これは俺のために作ってくれたところだな」と思った。

【編集部注】
東大のイチョウ並木に続き、またしても強烈な「直感」。ご本人曰く「そう思ってたんだ」とのこと。


——大学3年の時だったそうですが。

坂井氏: (政経塾の資格が)高校卒業ってのがあったので、大学中退するから入れてくれって手紙書いたら、卒業しなきゃ相手にしないって返事が返ってきて。やることが決まればすぐやりたかったし、東大っていうブランドに入りたくて行ってるわけじゃないから、大学を卒業すること自体は全く気にしてなかったんだけど、しょうがない、4年になってもう一回受けたと。

——入塾試験で『宇宙戦艦ヤマト』の論文を出したというのは本当ですか?

坂井氏: あ、そうそう。あれは大学のゼミの論文(国際政治)で使ったやつの使い回しで二度目なんですよ。きっかけは、小学生の時に『侍ジャイアンツ』っていう漫画(アニメ)があって、それが終わっちゃったんですよ。すげえ残念で悔しくて。そしたらその後始まったのが『宇宙戦艦ヤマト』で。

——それが論文に?

坂井氏: 見たらなんと驚くことに、あのー、地球連邦大統領がいるんですよ。 これはもう大変ショックだったわけですよ。「なんで今、地球に大統領がいないのか」と。 (ヤマトでは)デスラー総統が地球を攻めてくるから、地球が一つにならなきゃいけない。地球全体に共通の脅威が迫れば、みんな一つに結集すると。 で、その時に論文で書いたんです。「我々(の地球)にも、デスラー総統は、すぐ近くに来ている。それが環境問題だ」と。

——それを政経塾の面接で?

坂井氏: そう。今後は一国で処理できる課題と、そうでない全世界でやっていかなきゃいけない課題(環境問題など)が出てくるんだ、と。 …で、その論文を出したら、(入塾面接で)「君、戦艦の『艦』っていうのはね、ちょっと字が違うね」って指摘された。大事な漢字を間違えてた(笑)。

【編集部注】
あれだけ熱く「地球連邦」と「環境問題」を語った論文も、まずは漢字の間違いを指摘されるという、なんともユーモラスな面接エピソードである。


——実際に入塾されて、松下幸之助塾主から直接教えを?

坂井氏: 私入塾した時はまだご存命で、で、入塾して4月3日が入塾式で、ほんで4月の27日に亡くなっちゃったんですね。幸之助さん。3週間ちょっとで。

——そうだったんですね。では、政経塾の「教え」とはどういうものでしたか?

坂井氏: 幸之助さん自身は、結局、自分で考えて自分で理解をして自分が感じられる能力をつけない限り意味がなくて、それはあの、人から教わるもの(座学)でもなくて、「現地現場主義」というんだけど。 一定のそのミッションを帯びて、そこで自分が責任者となって、そのミッションを形にする、結果を出すという中で、初めていろんなことを学んでいくと。 スタートは5年間、勉強することも内容もやり方も、全部自分が決めて、結末は自分に全部降ってくると。

——すべて自己責任、ということですか。

坂井氏: そう。やんなきゃやんないで、自分の身につかないとか、自分の実力が上がらないと。(幸之助さんの)話だったらしいんだけど、5年後卒業してすぐ「君、文部大臣やってくれ」と言われるぐらいの力量を持たないかんぞ、と。 そういう(誰もチェックしない)発想だったんだけど、私が卒業する前にもうあの「評価システム」に変わっちゃって。

——坂井さんが入られた時は、過渡期だったのですね。

坂井氏: 私が入った時にはもう本科(2年)と政治専科(3年)に分かれてて。政治家にならない人間はもう政治専科に行かなくていいから2年で卒業しろみたいな、そんな制度に変わり始めてた時でしたね。

——アメリカ研修では大変なことがあったそうですね。

坂井氏: (研修先の)SRIインターナショナルという組織に行って、ある日、みんなでメジャーリーグの試合(サンフランシスコジャイアンツ)見てたら急に「俺たちさ、会社動くからお前も来る?」って言われて意味がわかんなかったね。 それで次の日、SRI行ったら、12人いたリサーチャーのうち11人が、なんとごっそり(別の会社に)移ってて。チャーリーくんだけ一人いて。

——チャーリーくん?

坂井氏: チャーリー君は自分の研究室の部屋の中にモデルの機関車のモデルをいっぱいこう線路並べてて、機関車をウィーンウィーンって回してる人なんだけど。彼だけ残ってて。研究者はいなくなっちゃったし、仕事もほとんど持ってかれっちゃったんで。ほとんどやる仕事がない状況になったから機関車してた。

人に話したら自由の国アメリカっぽいって言われたけど。

——波乱万丈ですね。当時は政治家を目指していたのですか?

坂井氏: 全然。36(歳)ぐらいまで自分でやるなんて考えてなかった。

(インタビューはここで時間切れとなった)


——次回予告

「俺のために作ってくれた」と直感で門を叩いた松下政経塾。しかし、入塾直後の塾主の逝去、そしてアメリカ研修先が”空中分解”するなど、波乱の幕あけとなった。

「36歳まで政治家になるつもりはなかった」と語る坂井氏が、いかにして政治の道を志し、国政の舞台へと進んでいったのか。

次回は、その激動の「社会人~政治家編」をお届けする。